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景王赤子・中嶋陽子が即位して、六十年と少し。
先王の残した荒廃はそのなりをすっかり潜め、今では民の王を誉めそやす声が、何処でも聞けるまでになった。
「懐達」という言葉も、王宮ではすでに死語となって久しい。陽子は三十年ほど前に、もとは春官であった
半獣の張清(楽俊)を三公の一、太傳へと召し上げた。それに際して六官長と大きな揉め事を起こして以来、
とくに大きな動きも無いまま、わりと上手く政務を軌道に乗せていった。
そんなある日、それは唐突に起こった。
景麒は州候の政務を終えて、自室に下がるために仁重殿への廊下を歩いていた。
その回廊からは、大きな庭園と低い垣根を隔てたところにある王の居宮・正寝が見える。景麒はそちらを
見つめ、はたと立ち止まった。側に控えていた下官に時刻を尋ねた。――午を過ぎて一刻ほど。
「主上……?」
景麒は眉をひそめて正寝を見やった。この時間ならば、正寝にいるはずだ。この時間はまだ日差しが強く
暑いから、剣の練習をするのは日が落ちたあとだと決まっている。何しろ「暑いから」という理由だけで
官服を一重脱ぎ、袖をまくったまま王宮をふらつくような王だ。長い髪も一つにまとめ、簡単にかんざしで
留めているだけだ。――そんな陽子を上手く言いくるめて、未だに髪を切らせない女官には感服する。
慶は今、夏真っ只中。雲海の上といえどそれなりの寒暖の差はあり、今はこの宮城でさえ蒸すような暑さだ。
それなのに、陽子は今、正寝にいない。ふい、と首をめぐらせて、王気を探る。捕まえるといつも、角の辺りが
心地良く暖かくなる。しばらく目を閉じて探ってみるが、王気はない。さすがに外宮まで遠出されると、
いかに景麒でもその気配を掴むことは難しい。が、陽子がそこまで足を運ぶ理由も無い。
景麒は、陽子が昨夜、楽俊と口論しているのを見たのを思い出した。喧嘩して家出、というのも、陽子なら
やりかねない。
景麒のこめかみに青筋が走ったのを、側に控えていた下官は見た。恐る恐る話しかける。
「台輔、いかがなさいましたか?」
景麒はゆっくりとした動作で振り向いて、いらだたしげに言った。
「申し訳ないが、私は主上をお探し申し上げねば」
下官は苦笑いした。
「かしこまりまして。文書はお部屋にお運びしておきます」
景麒は軽く首を傾けるように会釈し、下官の脇を通って今来た道を引き返した。
角を曲がって正寝の方へ抜けていく景麒を見やって、下官は笑って息を吐いた。
「今度はどちらまで遠出なさっているのでしょうね」
景麒は禁門まで降りてくると、足元に声をかけた。
「班渠」
「――ここに」
景麒の足元の影から、犬の頭が出てきた。
「主上をお探し申し上げよ」
「御意」
「主上の居場所は」
班渠はしばらく探るように地中に潜り、少ししてから顔をだした。
「委細は。ですが雁に向かわれたご様子」
景麒はまたか、と溜め息を吐いた。
「主上は冗祐を憑けておられない。早急にお探しし、お戻りくださるように」
「御意」
「それから」
地中に潜りかけた班渠を、景麒は呼び止めた。
「……もし、事情がおありのようなら、危険のなきよう、お付きせよ」
班渠はにやりと笑うように目を細めた。
「御意」
短く答えて、班渠は地中に潜った。
陽子は厩の吉量を拝借して、雲海の下をすすんだ。城を出たのが昼過ぎだったから、その日のうちに慶を出る
ことはできなかった。高岫山近くの町で宿をとり、夕食を済ませた。
陽子は自室に下がってから、窓を開け放して月を眺めた。厨房で貰ってきた饅頭をほおばる。
無感動に眺めていた月が、不意に揺らいだように見えた。はっとして足元を見る。
「……班渠か」
足元に落ちた影から、是、と答えが帰ってくる。
「流石に景麒は手を回すのが早いな」
陽子は月を眺めたまま苦笑いした。
「見逃してくれないか。――楽俊と喧嘩したんだ」
班渠は黙ったままだった。
「呆れるだろう? 口で勝てるわけが無いのに。……少し頭を冷やしたい」
「台輔が困っておいでです」
「明日の分の仕事は終わらせたよ。朝議は浩瀚に頼んであるし」
班渠は考えるような間を置いて、
「……御意」
陽子は足元に眼をやった。班渠の首がのぞいている。
「迷惑をかけてすまないな。行き先だけは伝えておくよ。――関弓にいってくる。ちょっとした催しものが
あるんだ」
「ですが、冗祐なしでは危険です」
陽子は困ったように笑った。
「……冗祐がいては困るんだ」
わからない、と沈黙する班渠に、陽子は問うた。
「景麒は、お前に私についていろ、と?」
「はい」
そうか、と陽子は頷く。
「じゃあ、頼む。命の危険は無いと思うが、景麒をこれ以上心配させては、帰ったあとが怖い」
雁国、関弓。月が煌々と輝き、宿の窓から見下ろせば、通りは店先の提灯だけで、のれんの掛かっている
店はない。ただ、里祠の前の広場に、ぽっかりと空いた空間には、祭りの気配でざわついていた。釘を打つ音、
誰かを呼ぶ声、明日から始まる祭りのための準備が、夜を徹して続けられている。
利広は窓枠に腰掛けて、その様子を遠目に見ていた。
「おや、今年はかなり盛大じゃないか」
去年にはなかった出店の骨組みがあるし、舞台は去年より大きく立派だ。
「これは、彼も降りてくるかな……」
利広は苦笑いした。再び里祠の前の広場を一瞥して、利広は布団に入った。
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